2024年8月26日週:愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ

みなさんこんにちは。
 毎日暑いですね、本当に暑い。先週末、うちの地元岩美町大谷の隣町鳥取市では、当日日本一の39.4度を記録しました。岩美町大谷もそのくらいだったと思います。その日近所を車で走ってみましたが、暑さのせいでしょうか、さすがに出歩いている人はいませんでした。太陽は、『燦燦(さんさん)と降り注ぐ』なんて言う詩的な表現は全然似合わないほど、遠慮会釈なく白くてきつい光を発射してきていました。本当に「カンカン照り」という表現すら可愛いくらいに、無茶苦茶な、体が溶けてなくなるような光線を発射してきていました。
 ところで、気象庁が使う表現で平年の気温とか平年並みとかの「平年」というのがありますが、この平年の定義ってご存じでしょうか。私含めて一般的な感覚では過去10年から15年くらいを平均したのではないかなという感じですよね。ところがこの「平年」というのは過去30年間のデータの平均値だそうですね(ウィキでも何でもググったらすぐ出てきます)。ちょっとびっくりですよね、10年、20年ならまだしも30年って。地球温暖化とか脱炭素とか言われて久しいですが、30年前頃の気温と今の気温って全然違いますよね。それなのに30年間のデータと比べるなんて・・・ねぇ。
 でもよくよく考えてみると、お天気だけでなく、政治や経済、その他いろいろなこと含めて、過去、歴史から学んでいますよね。「30年間の平均」が良いか悪いかは別として、我々は過去、歴史から学ばなければならないということですね。

 という事でちょっと強引ですが、今回はドイツ帝国の初代首相である、オットー・フォン・ビスマルクさんの名言、「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」について考えてみたいと思います。

◆愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ
 という言葉をご存知の方もいらっしゃると思います。もう既に書いてしまいましたが、これはドイツ帝国初代首相のオットー・フォン・ビスマルクさんが言った言葉です。この方、色々な名言を残しています。例えば、以下のような感じです。
・歴史が証明する所に拠ると、逃した機会は二度と戻らない
・「原則としては賛成だ」と人がいう時、その人間はそれを実行しようする意思を微塵も持ってはいない
・人が決まってウソをつくとき。それは狩りの後、戦争の最中、そして選挙の前
・原則にしがみつくのは、それを実地に試してみない間だけのことです

 なんか、「深イイ話」に出てきそうな感じですね。逃した機会は二度と戻らないって、「うーん、確かに」という感じです。「原則として賛成」もそうですし、他もそうですね。やっぱり良いことをいう人は常に心にグサッと刺さる言葉が口から溢れて出るようになっているのでしょうね。と、今回はビスマルクさんの残した名言、格言の数々を噛みしめるのではなく、「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」について考えるのでしたね。
 みなさんはこの言葉を聞いてどう感じましたか?というか意味が分かりましたか?私は初めてこの言葉を聞いて、最初はよく意味がわかりませんでした。愚者、愚かな者は経験に学ぶ・・・って、「愚かであってもなくても、みんな自身が経験して学んでいくものなのでは?」とか、「賢い人でなくても歴史から学ぶことはできるでしょう」という感じです。
 でも、これを少しずつ噛みしめていくとなんとなく分かってきました。愚者、愚かな者は経験に学ぶ。つまり自身が経験しないと、経験しながら失敗もしてみないと学ぶことはできない、自分自身のものにすることはできない。反対に賢者、賢い人は歴史から学ぶ事ができる。つまり、自身が経験しなくても、自分で失敗しなくても、他者の経験、失敗という歴史を見て、感じて、それを自分のものにすることができる。自分が経験したのと同じ、あるいはそれ以上のものとして自分自身のものにすることが出来る。まさに「深イイ」ですよね。

◆「経験」と「歴史」
 ちょっとここで考えてみましょう。ビスマルクの言う経験や歴史というのは先に書いた通り実際に自身の経験であったり、或いは他者の経験したこと、つまり歴史だと思います。ではこれを我々に当てはめてみるとどうなるでしょうか?
 経験・・うーん、経験というのは「自分自身が経験する」ことですので、これ以外の表現は難しいですね。我々が仕事をやっていく場合、それぞれの立場でその仕事に習熟する必要があります。そこには、それこそ「経験」を積み重ねてベテランになっていくものだと思います。私たち鮮魚仲卸業でもそうです。我々にとってとても重要な「競り」というのがあります。これは水揚げされた魚たちを競り人が我々仲卸業者のうちのどこにいくらで落とすか決めるものです。よく豊洲市場で競り人が大きな声を出して「○○(業者名)!△△円(競り落とした価格)!」とやっているあれです。我々仲卸業者にとっては良い品を安く落としたいですし、逆に漁師さんにとっては高く落としてほしいです。そこのせめぎ合いががあるのですが、これなんかも経験して、その経験を積み重ねていってその勘所がわかって、熟練になって、ベテランになっていきます。やっぱり自分自身が経験していっているわけですね。
 では、歴史・・はどうでしょうか。仲卸業者の経験を歴史にするというのは・・・ちょっと難しいですね。聞いたこともありませんし。ただまあ、仕事をやっていくうえで必要な、というか役に立つ歴史というのは、先輩達が築いた手順であったり、やりかたであったり、色々な資料なのではないかと思います。仲卸業者が資料を残したというのは知りませんが、仲卸業者に限らずその道の達人たちの経験を書き残した書物や自伝(日経新聞の「私の履歴書」なんかもそうですよね)、訓戒、名言(先のビスマルクの残した一言なんかもそうかもしれません)なんかがそうなのだと思います。これはまさしく「歴史」ですよね。

◆結局・・・
 よくよく考えてみると、経験も歴史なんですよね。先人の経験したことはその人にとったら単なる経験でもそれを語り継いだり、資料に残して先につなげることによって経験が歴史になります。ただ、ビスマルクが言いたいのは「自分で経験しないとわからないというのはまだまだだよ」ということなのではないかと思います。自分で経験してわかるのは当たり前(中には自分自身で経験してもなかなかそれを理解できない人、経験を生かせない人もいますが・・あ、ひょっとすると私もかも・・笑・・汗)で、そこを自分で経験しなくても誰かの経験(歴史)を自身に置き換えて、自身に当てはめて考えればわざわざ経験しなくても、誰かの経験を自分のものとして生かしていけるよ。そして誰かの経験を生かすことをできるのが賢者、賢い人だよ、と言っているのだと思います。
 私は会社勤めをしていた時にこの言葉を聞いて、これは人材育成に生かせる言葉、というか人材育成のための言葉だなと思いましたが、人材育成などという大上段に構えなくても、仕事を離れた日々の生活でも生かせる人生訓のようなものかもしれないな、と思う自分もいたりします。

 これを読んで頂いているみなさんも、他人の経験を自身の経験にするということ、そういう考え方をもって生活したらいろんな面で楽しく、楽に生活できるかもしれませんね。
 はい、それでは来年度も乞うご期待です。さようなら。
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