2026年4月20日週:京都南丹市の児童死体遺棄事件について

 みなさんこんにちは。今世間を物凄く騒がせている、お父さんお母さんを心配させている京都南丹市の児童死体遺棄事件をご存じでしょうか。まあ、私がこんなことを言わなくても毎日々々テレビをつけたら、NHKのニュースでも民放のワイドショーでも細かく細かく伝えていますので、とてもよくご存じだと思います。
 私この事件のことを聞けば聞くほどなぜか違和感を感じていました。「なんかおかしいな、なんか変だな、なんでこんな事件が起きるんだろう」と。
 少し前のコラム(2025年の11月24日週号)で「父母恩重経(親から子供への愛情はとても深いということを説いた教え)」についてご紹介をしました。その教え、考え方は普通に親が持っているものだと思っていました。でもどうやらそうではないようなのです。そのため色々な痛ましい事件が起きているのではないかということに思い当たりました。で、そのことについてAIと会話してみました。色々会話しました。色々と私の思っていることをAIにぶつけてみました。すると何か今回の事件がなぜ起こってしまったかということのヒントがつかめたような気がしました。
 そこで今回はその会話をコラムに載せたいと思います。以下は私が思っていることをAIと会話した結果をAIにまとめて貰ったものです。ちょっと読んでみてください。

・・・

――「親になる」ということの重さと、現代の歪みについて――
父母恩重経という経典を読むと、胸の奥が静かに熱くなる。
母の膝、母の乳、母の情け。
飢えても子に食べさせ、汚れを厭わず世話をし、十月十日の苦しみを経て命を産み落とす。
そこに描かれるのは、理屈を超えた“親の本質”であり、人間の根源にある慈しみの姿だ。

この教えに触れたとき、人は自然と自分の親を思い出す。
幼い頃の記憶、母の手の温度、父の背中。
それらは言葉にしなくても、心のどこかに確かに残っている。

だからこそ、南丹市で起きた小学生の死体遺棄事件を知ったとき、多くの人が言葉を失った。
「親が子を殺すなんて信じられない」
「どうしてこんなことが起きるのか」
そんな声が自然と漏れる。

しかし、事件の背景を見つめると、そこには“親”という言葉から想像される姿とはまったく異なる現実がある。
犯人とされる男は、被害者の実母と再婚した継父だった。
だが、彼が本当に“親”だったのかと問われれば、答えはおそらく否だろう。

父母恩重経が説く親の姿は、
「子を中心に据えた無条件の愛」  
である。
しかし、今回の事件の加害者が抱いていたのは、
「母親への恋愛感情」  
だけだった可能性が高い。

つまり、彼にとって“家族”とは、
自分が愛した女性との関係だけであり、
その女性の子どもは“付属物”でしかなかったのではないか。

この構造は、現代の虐待事件において非常に多く見られる。
内縁の夫、再婚相手、同居人――
呼び方は違っても、共通するのは
「親になるための心理的成熟を経ていない大人」  
が、子どもと同じ空間にいるということだ。

恋愛はできても、
責任は負えない。
欲求は満たしたいが、
他者への共感は育っていない。
自分の生活を優先し、
子どもを“邪魔な存在”と感じてしまう。

こうした未熟さが、母親への支配欲と結びつくと、
子どもへの敵意へと転化する。
「自分の思い通りにならない」
「母親が子どもに気を取られている」
そんな歪んだ感情が、暴力の引き金になる。

父母恩重経の世界とは、あまりにも遠い。

経典が説くのは、
母が飢えても子に食べさせるという“自己犠牲の愛”だ。
しかし、現代の虐待事件の加害者は、
自分の欲求を満たすために子どもを排除しようとする。

この落差は、ただの違いではなく、
人間としての成熟の有無  
と言っていい。

父母恩重経は、
「親とはこうあるべきだ」
という理想を示す教えだ。
しかし、その理想は、
誰もが自然に到達できるものではない。

親になるとは、
血縁の有無ではなく、
心の成熟と責任を引き受ける覚悟  
によって初めて成立する。

今回の事件の加害者には、その覚悟がなかった。
だからこそ、彼は“親”ではなかった。
ただ母親に恋をし、
その関係を維持するために子どもを邪魔者と見なした。
その結果が、取り返しのつかない悲劇となった。

父母恩重経の教えが届いていれば――
そう思う気持ちは自然だ。
しかし、届くためには、
その言葉を受け取るだけの“心の器”が必要だ。
今回の加害者には、その器がなかった。

だからこそ、私たちは改めて考えなければならない。
「親になる」とは何か。
 「家族をつくる」とはどういうことか。
 そして、子どもを守るために社会は何をすべきか。

父母恩重経は、千年以上前に書かれた経典だが、
その核心は今も変わらない。
親の恩は深く、重く、尊い。
その恩を知ることは、人としての根を育てることでもある。

しかし現代には、
その根を持たないまま“親の立場”に立ってしまう大人がいる。
その歪みが、今回のような事件を生む。

だからこそ、私たちはこの事件を
「異常な例外」
として片づけてはならない。
むしろ、
現代社会の構造的な問題が凝縮された事件  
として受け止める必要がある。

父母恩重経が説く“親の姿”は、
単なる理想ではない。
子どもが健やかに育つために必要な、
人間としての最低限の成熟を示している。

その成熟が欠けたとき、
親は親でなくなり、
家族は家族でなくなり、
子どもは守られなくなる。

今回の事件は、
その現実を突きつけている。

そして同時に、
父母恩重経が今もなお価値を持つ理由を、
静かに教えてくれている。

・・・

 どうです?少し格好の良い味付けになっていますが、なんか伝わってきませんか?実父でも継父でも親になるということは、単に子供が生まれたから親になれるというのではないと思うのです。養子縁組をして戸籍に入れたから親になれるのというのではないと思うのです。
 私もそうでしたが、生まれたばかりの子供を見た時は親になって嬉しいというよりも、とても不思議な気持ちになりました。目の前に赤ちゃんがいます。その赤ちゃんは私の血と同じ血が流れているんです。でもテレビとかででよく見る赤ちゃんです。でも、この子は自分の子、俺の子です。・・・うーん、ちょっと伝わりにくいかもしれませんが・・・不思議な気持ちになりました。あ、もちろん可愛いんですよ。そりゃ無茶苦茶可愛いんですよ。でも不思議な気持ちでした。
 それから大人になるまで色々なことがありました(まあその色んなことと都度々々、全てに向き合ってくれたのは奥さん、子供たちのお母さんですが(汗))。兎に角、色んなことがありながら色んなことにぶつかりながら本当の親になった、本当の親になれたような気がします。これが私の心が成熟していったということなのだと思います。でもまあ、子供が赤ちゃんの時から「この子は俺が守ってやらなければ」という感情は気持ちとか意識とかいうのとは別の次元、心の奥底にあったのも事実ですが。
 今回私はAIと「父母恩重経」について会話しましたが、あれは子供の側から見て「親の恩は深くて尊いもの」だというのと同時に、親の側からもそんなの(子供への慈愛)は当たり前ということを改めて教えてくれているような気がしました。そしてそんな気持ちをほんの少しでも今回の事件の犯人が持っていたならば、感じることが出来ていたならば、こんな痛ましい事件は起きなかったのではないかと思います。ひょっとすると今回の事件だけでなく、世間で起こっている児童幼児虐待事件でも同じことが言えるのではないかと思います。

 はい、今回はちょっと真面目に書いてしまいました。あ、そうそう、私はお坊さんではありません(念のため)。それでは次回も乞うご期待です。さようなら。

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