みなさんこんにちは。
今回は「もしもあの時あの話をきちんと理解していたら」と後悔した自分と向き合った話を書きます。あまり面白くないかもしれませんが、ちょっと読んでみてください。
今から40年以上も前のことです。当時大学に入学したての頃でした。私の入学した大学だけではないと思うのですが、入学したらオリエンテーションというかクラス分けをした後に担任の教授から大学について説明のようなもの(あまり詳しく覚えていませんので“ようなもの”です)がありました。この大学はどんなことを学ぶところなのかとか、学生たちはどんな生活をしているのかとか、そもそも大学とはどんなところなのかについてだったと思います。40年以上も前のことですからはっきりとは覚えていませんが、そんな感じだったと思います。
そのなかで、その教授がまさに大学とはどんなところなのか説明してくれたことが私の心に深く突き刺さりました。教授曰く、「大学というのは好きなことやりたいことをやっていいところだ。好きなことやりたいことを好きなだけやっていいところだ。やりたいことをやろうと思ったら、授業に来なくてもいい。そのやりたいことをやっていて構わない。みなさんも自分のやりたいことを早く見つけてください」。どうですみなさん、この教授はすばらしいとおもいませんか?少しくらい授業をさぼっても自分のやりたいこと、没頭できることがあるのならそれに一生懸命になればいい。授業よりもそちらの方を優先しても構わないと言ってくれたんです。
この教授が好きなことやりたいことというのは、自分が学んでみたいこと、研究してみたいこと、学問として突き詰めてみたいことを指していると思うんです。そう、普通に聞いたらそう理解できます。おそらく100人の学生がこの言葉をきいたら90人以上はそのように理解すると思うのです。ところが、100人のうち数人はそういうふうには考えないで、「やりたいことをやろうと思ったら授業に出なくてもいいんだって、・・・え!?いいの?」と受け止めてしまう学生もいるのかもしれません。まさに私がそうでした。
元々、その大学で“何か”を学ぼうと思って受験したわけではなく、自分の偏差値でいけそうなところを探していたらその大学が見つかって、しかも今の時代を先取りしているようなITの技術を学べる大学だったため、「偏差値=OK」、「専攻=いける(時代の先取り!)」、「よし受験しよう!」と受験しただけですので・・・と、こんなことを書くとゼミでお世話になった教授や色々よくしてくださった先生方に申し訳がありませんが、でもこの話は結構本当です。あー、こんなことを書くと大学の先生たちだけでなく親にも申し訳ないですね。本当に私はどうしようもない奴でした。
と、担任の教授・・うーん、なんかしっくりきませんね。教授ではなく先生にしましょう・・担任の先生に言われた「大学とは」の中で、私は自分に都合の良いところを都合の良いように切り取って受け止めてしまい、最初から授業には出ませんでした。そのせいか大学の仕組みというものを理解するのに結構時間がかかってしまいました。例えば、語学は必ず2科目選択しなければならないとか、履修科目のうち必修と選択があって必修科目を選択し試験で合格しないと次の学年に上がれないとかです。よく考えたらというか今から考えたらこんなこととても当たり前のことで大学生でなくても知っていそうなことですが、でもなぜかピュアな純粋な心だった私はそんな感じでした。あと、なかなか友達ができませんでした。それも当然と言えば当然ですよね。授業に出ないということは大学に行かないということですから友達ができる筈がありません。
では何をしていたかというと・・・、そうですね、何をやっていたのでしょうか。読書というほど本を読んでいたわけでもありません。ただ、当時はマイブームにあった星新一の小説はよく読みましたね。ただよく考えてみるとその読書で何かを得たか、というと何も得ていない気がします。自分のこれからの人生のためになる「何かを掴んだ」とか、「困ったときにはこうすればいいんだ」という自分の気持ち、心の芯を作ることが出来たとかそういったこともなく、ただ何となく文字を目で追っていただけのような気がします。読んだ本の内容が思い出せないことからしても、多分そうなんです。眼で追っていただけだったのだと思います。
結局私は先生の言うことを自分で歪めて理解してしまっていたため、大学に入学したての一番大切な時期を無駄に、無為に、何も成さないでただ時間だけが過ぎて行っていたような気がします。本当にもったいないことをしました。
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でも、よく考えてみると、あの無駄に無為に過ごした時間があったから今があると思える自分もいます。1年留年はしましたが、お陰様で卒業後はきちんと就職できましたし、その会社に入ったおかげで何十年も会社員を続けて来られました。そして自分として人様に恥じない仕事をしてきたと言えますし、会社に対してもそれなりの貢献ができたと思っています。それだけでなく、大学に入学したおかげで今でも付き合いのある友達と出会うことが出来ましたし、奥さんや子供たちといった家族を持つこともできました。
やっぱりあの無駄に無為に過ごした時間があったからなのだと思います。・・・とこんな書き方をするとこれを読んでいるみなさんは「え、それからいったい何があったの?」と思われるかもしれませんがそれはちょっと秘密です。またいつか機会があったら書きたいと思います(笑)。
話を元に戻します。こういうのをなんていうのでしょうか、因果応報、うーん、私の無為に過ごした時間が何かの成功を生み出したということではありませんのでこれはちょっと違いますね。会社のこと、友達、奥さんのことは成功とはちょっと違って「良かった」というべきもので、「成功したぜ」とは少し違うと思いますのでやっぱり違うと思います。失敗は成功の母、うーん、無為に過ごした時間は失敗と言えるかな?失敗と言えば失敗かもしれませんが、でもこれもちょっと違うと思います。一番しっくりくるのは人間万事塞翁が馬でしょうか。塞翁さんの息子さんが怪我をしたため嘆いていたら結果的には徴兵されずに済んだというあの話です。途中ちょっと端折っていますがまあいいとしてください。無為に過ごしていたのは自分としては何かを意識してやっていたつもりはなかったですので塞翁さんに起こった出来事と同じなのではないかと思います。そして大学生活2年目からは普通に大学生をやっていた私は、塞翁さんと同じように何も自分からは何かを成そうとしていたわけではなくただ普通に大学生をやっていただけでした。それが結果として今の自分は「良かった」と思えるわけですので。
今回私は何を言いたいのでしょうか・・・。
今回のコラムを書き始めた時には、あの時、入学してすぐの時に先生の言葉を、先生の言葉の意味を正しく理解して、自分のやりたいこと、勉強したいこと、研究したいことを見つけてそれに向かって一生懸命やっていたらどうなっていただろう。そこには今と違った私がいて、その私は人生の成功者で他者を圧倒して、誰もが羨む人生を送っていたのだろうな。そんなことを書きたいなと思って書き始めました。
ところが書き進むうちに、なんか違うのではないかなという思いが湧いてきました。どんなことがあっても、良いことがあっても良くないことがあっても、それに対して自分として向き合って、その時その時を無為にではなく、自分として当たり前にやってきた。だからその結果として今現在の自分があって、今現在の周りがいてくれて、今現在に満足しているのではないかと思います。
多分そうなんです。どんなことがあっても、それはこれからの自分にとってマイナスになることはないんです。悪いことでも良いことでも、そしてどうでもいいこともその人の人生にとって無駄なことはないと思うんです。私は人生の半分以上を生きてきました。まだまだ年寄り臭いことをいうつもりはありませんが、でもやっぱり人生にとってはその日その時に起きることは無為にとか無駄にということはないと思います。何事も、その人が人生を生きていくために必要なことを天の神さんが与えているのではないかと思います。少なくとも今の私にはそう思えます。
みなさんも、あ、みなさんは無駄にとか無為に時間を過ごすことはないかもしれませんが、それがいつかは何かのためになっている、なって行くのではないかと思います。「あー勿体ない時間を過ごした」と思うことがあっても心配しないでください。いつか必ず「あーあの時は今のこの時のためにあったんだ」と思える自分に出会えますので。
はい、ということで今回はちょっとお坊さんの説教っぽくなってしまいました(笑)。それでは次回も乞うご期待です。さようなら。