みなさんこんにちは。先日少しショックなことがありました。
孫の保育園お迎えのときのことです。いつものように孫をチャイルドシートに座らせてシートベルトを締めようと一生懸命やっていると、孫が「あれ?なんでじいじのここにはないの?」と言いました。最初私は何のことだかわかりませんでした。よく聞いてみると、私が孫のシートベルトを締めるときに、私の頭の天頂部がちょうど孫の目の前にあったんです。その天頂部を指さしていたようで、「あれ?なんでじいじのここ(頭のてっぺん)には(髪の毛が)ないの?」ということだったんです。いや、正直ちょっと凹みました。子供の何気ない一言というのは、悪気が無いのは分かっているのですが、ただ単に本当に疑問に感じて発した言葉だと分かってはいるのですが、それでも凹みました。ショックでした。自分でも感じてはいたことです。でも、以前と比べたら、単身赴任の頃に比べたら、全然無いというわけではなく、細くても一生懸命伸びようとしている髪の毛たちがあるわけです。そりゃまあ、普通の髪の毛と比べたら細くて短いですが…。でも、でも……。と心の中では動揺しているのですが、その場は「なんでだろうな、じいじは男だからかな?」と訳の分からないことを言ってごまかしておきました(涙)。
娘に二人目の子が生まれることになり、里帰り出産のために家へ戻ってきてもう三ヶ月が過ぎました。三ヶ月といっても、あっという間だったような、いや、長かったような、そんな不思議な時間です。おかげさまで娘の二人目の子供も無事に生まれてきてくれました。家の中に子どもが二人いるというのは、こんなにも空気が変わるものかと驚いています。泣き声や笑い声が混じり合い、生活のリズム、というか生活自体がガラリと変わってしまいました。ご飯のときはテレビは消す。孫が歯磨きの時はテレビは消す。孫が言うことを聞かない時はテレビは消す…あれ?テレビだけ?いや他にもありますがまあとりあえずテレビです。でもそのガラリにも慣れたせいなのか戸惑いもなくなりました。
上の孫は、三歳と九ヶ月という年齢で、まだ幼いようでいて、しかし驚くほど多くのことを吸収します。こちらが何か言えば、すぐに真似をします。真似をしたと思えば、今度はそれをこちらに返してくる。生活そのものがキャッチボールになったような日々です。キャッチボールといっても、こちらが投げたボールが思わぬ方向に返ってくることも多くて、なかなか油断できません。
孫はとても優しい子です。ママが咳をすれば「ママ大丈夫?」と言って背中をさすり、赤ちゃんが泣けば、ママがいなくても小さな手でよしよしと慰めます。背中をさするその手つきがまた絶妙で、本人は真剣そのものなのですが、見ているこちらは思わず笑ってしまうような、そんな可愛らしさがあります。三歳児とは思えないほどの思いやりを見せることがあります。
けれど同時に、三歳児らしい頑固さも健在です。自分が遊びたいときには「いーやだ」と言って聞かず、機嫌が悪くなるのも早い。さっきまで赤ちゃんをよしよししていたと思ったら、次の瞬間には「いーやだ」と言って床に寝転がっていたりする。その変わり身の早さに、こちらがついていけないこともあります。優しさとわがままが同居しているところが、なんとも人間らしくて愛おしいです。
お風呂の時間にも、その“揺れ”が表れます。ママが赤ちゃんの世話で忙しくて、寝る時間も削られているため、「じいじと一緒にお風呂に入ろう」と言うのですが、孫は首を横に振ります。「ママと入りたい」「うーん、ママと入りたい」「……マーマと入りたい!!」と、だんだん声が強くなります。娘が入院していた頃には、じいじと二人で普通に入っていたのですけどね。あの頃は、シャワーを浴びながら水鉄砲で遊びながら「じいじ、今度あれを撃って」と言っていたのに、今は「マーマと入りたい!」の一点張りです。本当は娘(ママ)を少しでも楽にしてあげたいのですが、ママに甘えたくてママの優しさを独占したい三歳児の心は、いじらしくて、これはこれで愛おしいです。
そんな孫との生活の中で、私が特に気をつけているのがお行儀のことです。特に“食事中の所作”です。私は小さい時から、食卓(だけではありませんが)の行儀は厳しく教えられて育ちました。食事中は肘をつかないとか、箸を持ったまま器を取らないとか、そういう基本的なことです。お椀の持ち方もそうです。よく巷で見かける、人差し指を内側に引っかけて持つあの形。どうにもみっともない。だから孫にも、親指をお椀のふちにかけて、残りの指で底を支える持ち方を教えます。
すると孫は、「私は手が小さいから難しいの」と言いながらも、なんとかその形を作ろうとします。小さな手が一生懸命に震えている。その姿が、もうたまらなく可愛いです。こちらが教えているつもりでも、実際にはその健気さに心を教えられているような気さえします。お椀を持つその小さな手を見ていると、こちらの背筋まで自然と伸びてしまいます。
箸置きも気に入ってくれました。お椀を取るときには箸を置くんだよ、と教えると、孫はその可愛い箸置きを、食卓につく前に必ず探すようになりました。箸置きがないと「じいじ、箸置きは?」と聞いてきます。小さな子どもが、自分の生活の中に“ひとつの儀式”を持つ。その姿を見るたびに、胸の奥がふっと温かくなります。箸置きひとつでこんなにも生活が豊かになるのかと、改めて感じます。
ここで少し脱線しますが、テレビのバラエティ番組などを観ていると、若いアイドルの食事シーンが映ることがあります。何かを箸で食べる場面です。すると、たまに「えっ?」と思うような持ち方をしている人がいます。大人とは思えないような、指がどこにかかっているのか分からないような、そんな持ち方です。家内と二人で「これはちょっと…」と顔を見合わせることがあります。
そんなとき、私は孫のことを思い出します。孫はまだ三歳ですが、親指をふちにかけて、残りの指で底を支える持ち方を一生懸命に練習しています。もちろん完璧ではありませんが、その姿勢がとても美しいのです。だからテレビを観ながら、「孫の方がよっぽど上手だね」と家内と笑い合うことがあります。三歳児が頑張っている姿と、アイドルの箸の持ち方が頭の中で並んでしまい、なんとも言えない気持ちになります。
孫というのは、本当に面白い生き物です。こちらが教えたことを理解したと思ったら、今度はそれをこちらに向けてくる。「じいじ、肘ついたら駄目だよ」「お口を閉じて食べるんだよ」。まるで小さな先生です。怒られない存在、受け止めてもらえる存在、関係が壊れない存在。そういう相手にしか、子どもはこういうことを言いません。だから私は、注意されるたびに少し嬉しくなります。孫に注意されるというのは、なかなか悪くないものです。
孫に行儀を教えるときに、私がひとつ気をつけていることがあります。それは、「マナー」とか「お行儀」とか、堅苦しい言葉を使わないことです。三歳児にとって、抽象的な言葉は理解しづらいです。こちらがどれだけ丁寧に説明しても、言葉そのものが難しければ届きません。
だから私は、「格好が悪いよ」と言います。すると孫はすぐに理解します。子どもは“意味が分かる言葉”でしか行動を変えられません。格好が悪いという言葉は、子どもの直感に直接届きます。そこから所作が整い、生活が整い、結果として“身を美しく保つ”ことにつながります。
躾というと、どうしても堅苦しい響きがあります。けれど本来の躾は、生活の中にある美しさを次の世代に手渡すことだと思います。肘をつかないことも、箸を置くことも、お椀を美しく持つことも、すべては生活の中の小さな美しさです。孫がそれを理解しようとする姿を見るたびに、私はこの子の未来が少し楽しみになります。
孫と過ごす日々は、決して派手ではありません。けれど、小さな手で背中をさすり、小さな声で「ママ大丈夫?」と言い、小さな体で「いーやだ」と反抗し、小さな指で箸置きを探す。そのすべてが、生活の中の宝物です。こうした日々が、いつか思い出になっていくのだと思うと、今の一瞬一瞬がとても貴重に感じられます。
行儀を教えるというのは、ただのルールではありません。生活の中にある“美しさ”を、そっと手渡すことです。孫が私に「じいじ、肘ついちゃだめだよ」と言うとき、それは私が伝えたものが、孫の中で形になり始めた証です。その小さな成長を見守る時間が、今の私には何よりの喜びになっています。
はい、今回は孫との生活の中で感じた行儀と躾のことについて書いてみました。それでは次回もこうご期待です。さようなら。